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(御代田駅引っ込み線作業の土手での記念写真 昭和20年7月)
(岩村田国民学校高等科1・2年男子)
大きい写真
御代田へ疎開した航空燃料廠
昭和20年(1945)4月 東京陸軍航空補給廠御代田常駐班が、北佐久郡下の全町村に勤労奉仕隊の動員を要請(命令?)した。御代田常駐班は、師第3420部隊工藤隊で、隊長の工藤少尉の下に下士官4〜5人と千葉県や埼玉県あたりから招集されたばかりの若い兵士3〜40人ほどで編成されていた。部隊は御代田劇場を宿舎にして、御代田村(現御代田町)を中心に残り少なくなった航空燃料や爆弾を格納して、本土決戦にそなえようとする作戦の一つであった。しかし、わずかな軍隊だけの力では労働力が不足なので、部隊では各村の隣組を通して穴掘り人夫を確保し、さらに足りない分を近くの国民学校高等科男子生徒を動員になったのである。
当時岩村田国民学校高等科2年(現中学2年)であった私達は、昭和20年4月から3日交代で御代田常駐隊で土工作業と食料増産のための農作業をすることになった。高等科男子生徒はスコップ・ツルハシ・唐鍬(とうぐわ)などの道具をかついで、町の北端にあった住吉神社に集合して、隊列を組んで軍歌を歌いながら8キロほど歩いて御代田に向かった。そのころの服装は、戦闘帽・ズボンに巻キャハンをつけていたが、靴がなかったので足袋にワラジをはいていた。ワラジは切れ、足袋は指先がすり切れて穴があくので、現場に着くとぬいではだしになった。シャツはよごれるので先生も生徒もはだかになって作業に入った。
第一の作業は御代田駅の引っ込線を西へ延長して半地下駅をつくる仕事であった。御代田劇場の宿舎からスコップをかついで隊列を組んでのぼってくる兵隊さんと一緒になって火山灰や焼石(火山弾)を掘って南側に積み上げる仕事であった。機械といえばトロッコが1台あっただけなので、土を入れては押し上げた。帰りは下りなので乗って下ったのでたいへん楽しかった。しかし1台しかなかったので、あとの大部分はわらで編んだモッコに入れては、天秤棒(てんびんぼう)の両はじを二人でかついで運び上げた。はだかのために肩がすり切れて血がにじむので、棒に手拭をまいて痛さをこらえた。
信越本線御代田駅は浅間山の傾斜地につくられていたため、全国でも数少ないスイッチバックのある駅であった。本線から入ってきた貨物は駅の西に延びた線路に入ってきた。深さ7〜8mの半地下駅は形が見えはじめ、兵隊さんと生徒は力を合わせて汗みどろになって働いた。しかし兵隊さんはやせていた。お昼になると炊事当番がバケツに入れた御飯(茶色)と味噌汁にヒジキと思われるおかずを、林の中へ板で作られた台にブリキで作られた入れ食器に盛りつけた。量は少なかった。それだけではない。ヒゲの伍長が炊事当番のやり方が悪いとどなったり、時にはピンタをとばすこともあった。あとでわかったことだが、下士官の分が少ないということらしい。
私の隊は農家であったから、弁当には米やいもが入っていた。母にたのんでいり豆を作ってもらって持っていっては、トロッコを押しながら、こっそり兵隊さんのポケットにねじこんだ。ニコッとする兵隊さんと口の中でボリボリ食べながら目と目で合図をした。兵隊さんからは歌を教えてもらった。そして一緒に歌いながら、トロッコをおした。
雨にうたれてアカシアの
花がみだれるぬかるみを
重いドログツ踏みしめて
進む緑の戦線よ
今日で十日(とうか)も雨ばかり
いつになったら晴れるやら
馬も砲庫もねれねずみ
青い大空こいしいよ
(この歌は4〜5番まで大陸で戦う兵士の苦労がうたわれていたがあとはよくおぼえていない)
50年たった今でもこの歌は同級会で歌って私達の同級歌となっている。
東京や関東地方に空襲が激しくなると、引っ込み線にはドラム缶や爆弾が到着するようになった。佐久地方から動員された馬荷車や数少ないトラックが馬瀬口に掘られていた横穴へ運んだ。からっぽのドラム缶は生徒が1本ずつころがして運んだ。馬荷車に積まれた1トン爆弾は火薬がなく信管もついていなかった。
横穴の作業がおくれているために、6月から小沼村の馬瀬口の穴掘りに転進(軍隊用語)した。浅間山の南山麓一帯は、何万年にもわたって火山灰や小石が積もり、今では黄褐色のやわらかい岩になっている。その岩は雨が降るたびに川によってけずられ谷をうがち、いたる所に垂直な谷が千曲川へ向かってつくられている。馬瀬口から平原(現小諸市)へかけて流れる繰矢川の谷にはすでに何十本と横穴が掘り進められていた。本州の中央部にあってアメリカの艦砲射撃からも届かないばかりか、B29による爆撃にも厚い火山灰層が防いでくれることからこの地が選ばれた。
勤労奉仕隊は小諸勤労動員所から各村毎に50人〜20人が割当てられた。奥行き30m、幅と高さ約3mの有蓋(がい)貨車と同じ形をした穴が総数414本が掘削されることになっていた。穴の掘削が深くなるにつれて、掘った土の運び出しがたいへんであった。1本の穴に2〜3人の大人が入って岩をけずり取り、高等科生徒が1本に2人ずつ配属されて、その土をモッコに入れて、外へ運び出した。運び出した土は穴の外へ積み上げて、運搬道路の建設に使われた。
トラックで運ばれてきたドラム缶は、荷台からころがし出すと2本の材木の上をころがって奥へ入るようになっていた。ドラム缶の両側は人間が歩けるほどの幅が確保されていた。朝から夕方まで土を運び出し、その土をならしては道路づくりにと1日中働いた。
( 馬瀬口の火山灰崖に掘られた 横穴の略図 )
7月に入って岩村田国民学校生徒は長野種馬所の牧草地に建設中の海軍飛行場へ転進することになった(現佐久市創造館から南一帯)。引っ込み線の土手で兵隊さんとみんなで記念写真を撮って分かれた。
私達は8月15日の終戦を飛行場の滑走路づくりの中で迎えた。
はだかではだしに巻きゃはんの姿をみると、体が細くて腕ばかりが長く、ベトナム戦争の頃の子どもの体つきとよく似ている。毎日の激しい重労働と、栄養の少ない食糧事情が私たちの体に刻みこまれていた。
その年の秋、三井村の山へキノコ取りに行った私達は、山の中に高く積まれたドラム缶を見て驚いた。それは御代田へ動員されていた□□□貨物のトラックが、横穴から運んできたものだと聞いた。終戦を迎えた燃料はアメリカ軍に引き渡される前に、地元の人によって持ち出されていた。
燃料の入っているドラム缶は少なく、爆弾には火薬が入っていなかった。軍隊といっても鉄砲は持っていなかったし、食事の時の下士官の態度はあまりにもひどかった。それでも私たちは日本が戦争に負けるなんて考えてもいなかった。勝つために泥まみれになって働いた。
信州は戦争による被害が最も少ない地域であり、大本営をはじめ各種の軍事機能が疎開してきた。戦争は勇ましいラジオや新聞から勝ものと信じていた。そんな中で体験した子ども頃のつらくてなつかしい思い出の1つである。
(佐久市岩村田3200−5 小林 収[おさむ])
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