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信玄方副大将信繁首級ここに眠る
武田典廐信繁
TAKEDA TENKYUU NOBUSHIGE
永禄4年9月 川中島合戦。
信玄対謙信最大の戦いで
信玄方副大将の信繁(信玄の弟)も乱戦の中討死した。。
忠臣山寺左五左衛門は
大激戦地の川中島で御首級を収める場所がなく
御体のみを埋め(川中島の典廐寺墓所)
首級は幌で包み
甲州領地であった小諸へ向かった。
(信繁嫡子信豊が永禄2年まで小諸城主だった)
小諸に着いた山寺は
信豊の家臣等と相談し、領内大久保の地を選び
有合わせの陣鍋で首級を覆い葬ったといわれている。
寛保の大洪水で信繁墓碑(五輪の塔)が流失したが
嘉永2年、付近の畑中より発見され
その墓碑は現在布引釈尊寺に寄託されている。
今の墓碑は明治20年に建立されたもの。
この墓の下往昔のまま陣鍋に収められ静かに眠っていると
いわれている。
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