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呑龍

子育て呑龍上人ゆかりの

呑龍

仏 光 寺




呑龍(どんりゅう)上人と小諸仏光寺

 元和二年(1617)、親の病を医する為、止む得ず禁制の鶴を殺した孝子、源次兵衛が上州太田大光院の上人のもとに助けを求めに来ました。上人には幕府の厳しい使いがたびかさなったので、出家させて、共に寺を去り、岩を登り、山を越えて遂に小諸に至り、仏光寺にのがれ隠れました。
 当時仏光寺の法円上人は浅間山岩窟に籠もっていたので、その留守をまもっていましたが、罪人をかくまったので僧階を剥がれてしまいました。
 小諸に留まること五年 元和七年(1621)。恩免をうけたので 再び大光院(群馬県)に戻ることができました。

 小諸での五年間の歳月にわたって、隠棲ご苦労された草庵がこの仏光寺です。


仏光寺

仏光寺  

子育て呑龍さま

 当時農民の生活は非常に貧しく生まれてくる子供の養育が出来ませんでした。
 そこで呑龍上人は七歳まで名義上大光院の弟子とする名案を考え子供達の救済をはかりました。
 このことから子育て呑龍さま言われるようになりました。

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